「ベッキー不倫」雑誌ジャーナリズム賞受賞は是か非か。

「ベッキー不倫報道」が2016年「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリスト賞」(第23回)の大賞に選ばれたとの報道がありました。

出版社や新聞社の編集者100人による投票を集計したところ、タレントのベッキーさんとミュージシャンの川谷絵音さんの不倫を暴いた週刊文春のスクープが最も多くの票を獲得したのだそうです。

これについては賛否両論、というか、否定派の意見が強いように思えます。

否定派の理屈を聞くと、曰く、

「ゲス不倫のような、下世話な報道がジャーナリズム大賞なんて品格がない」とか

「芸能人の不倫を追った報道なんて、著しく公益性がない」とか

「同じ文春の記事でも、甘利元大臣の都市再生機構(UR)のあっせん利得処分法違反や舛添元都知事の政治資金使途公私混同問題の方が大賞にふさわしい」

というものだ。

言わんとしている事はわかるし、私もそう思わないでは全くない。

しかし、何だか違和感があるので書かせてもらおうと思った次第です。

 

例えば、過去を遡ると、江戸時代の瓦版などは、歌舞伎役者の恋愛だとかの恋バナが一番の売れ線コンテンツだった歴史があります。
人の恋路に首を突っ込む、下世話ですし公益性のような大義名分もありませんが、そういう人の根源的本源的官能的欲求というのは、今も昔も変わらず人の心を刺激し続けるという証左でしょう。

翻って、この「ベッキー不倫報道」。

この時の文春の取材はハイテクも駆使したえらい努力の結晶だったわけです。不倫ネタ以外の取材にも応用が利くようにも思えます。
また、アカデミックでなけりゃ公益性がなけりゃジャーナリズムでないなんて誰が決めたんでしょうか?

それこそエスタブリッシュメント、自称知識人たちの驕りなのではないでしょうか?

そういう「ベッキー不倫ネタなら買う」といういわば「下世話な人たち」「人の恋路が気になって仕方ないアカデミックなんてどーでもいい多くの一般大衆」によって文春の、そして大きくとらえれば、マスコミの収益は支えられているのです。
その収益で以て、文春の記者に給料が払えるわけだから、善悪は問わないが、記者を育成するのにゴシップが一役買っているともいえるわけです。

「ベッキー不倫」という自称のひとつの側面しかとらえず、アカデミックでない、公共性がない、社会的意義がない、と批判するのは、それ自体が、アカデミックでない行状ではないでしょうか。

だからまあ今回の落としどころとしては、「ベッキー不倫」は大賞というより、特別賞くらいの位置づけなら、みんな納得したのかもしれませんけどね。

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