【2018年末】M-1とは何だったのか

少し時機を逸した感があるが、M-1について雑感をまとめておきたい。

 

【まず上沼恵美子も久保田も両方好きだということ】

まず私は学生の時分、関西ローカル「いつでも笑みを!」という上沼恵美子のトーク番組を、毎週録画して観ていたくらい、上沼恵美子さんの大ファンである。

同じ熟女タレントでも、和田アキ子やデヴィみたいなのとは、まるで実力もプレゼンスも品性も違う。

料理も上手い。

(高田純次や渡辺徹との軽妙なやり取りは非常に洗練されていて、今でも参考にさせていただいています)

一方の久保田も、テレビで観てるとなんか良い意味で下品で、面白いし、好き。

そんな面白い二人が、たかだかM-1の審査なんて下らないことで揉めている?のが単純に消費者としては悲しいです。(これ自体をショーと考えるなら悪くもないが)

それはまるで、本来なら仲良くなれるはずの二人が、宗派の違いで血みどろの殺し合いを演じる、宗教のよう。

宗教とはそもそも、みんなで仲良くするためにあるんではなかったの??

 

【そもそも本当に面白いのか?腹の底から笑えていますか?】

元々、漫才とかコントには少し辟易としていたところでもある。

関西弁で、

「ボケた!ツッコんだ!さあ笑え!」という感じがもうお腹いっぱい。くどい。

とりわけあの、「吉本芸人の内輪ノリ」がもうサブい。

まるで体育系大学の学生の飲み会を延々と見せられているような不快感もある。

それを放送時間3時間?でずっと漫才とか。。。長いよ!!!

後生だから15分くらいにコンパクトにまとめてくれよ。

(ということで、M-1はほとんど観ていません。観ていないのに何でこんな書いてるんだろう?と少し自分に対する自覚や疑問もあります。)

人を笑わせよう可笑しませよう、という作為が強く見えれば見えるほどに、一部の成熟した消費者はそこに「野暮ったさ」を感じて「冷める」。

そういう意味で最強のお笑い芸人とは、黒柳徹子であり、そしてブラックジャック&ピノコなのである。

(原因不明の病気の手術を今からピノコにされそうになっているこの患者の絶望の表情にこそ、笑いの本質がないだろうか?)

 

【そもそも、お笑いとは優劣をつけるものなのか?】

まるでジャンプからスピリッツへと愛読書がいつの間にか進化しているように、漫才やコントなどの「作為」から興味の対象が移った(深化・進化・進歩した)ということを書いてきました。

そしてもうひとつ思案するべきは、お笑いというのはそもそも優劣をつけるものなのか、という点でしょう。

「限定された選択肢の中から、「正解」をひとつ選べ」、というあのセンター試験の国語のような傲慢を、私はこの審査に見ます。

「正解」は受け手によって違う。しかしそれを審査員が「権威」として決めつけるのは結構危険な行為ではないでしょうか。

加えてこのギリギリの勝負、とか、生放送における極度に高い緊張感など、それら全てが、むしろお笑いをその本質から遠ざけてしまうのでは?という疑問も感じてしまいます。

Entertainmentですから、勝ち負けの概念が当然あっていい。

しかしお笑いはどうなのか。→私はお笑いは違うと断じざるを得ない。笑いの正解こそ多様である。

みんな日々、息苦しさと共に、「正解」や「正義」や「正しさ」や「権威」と闘って疲弊している。

それなら、テレビでお笑いを見る時くらい、それらを忘れてリラックスしたくはありませんか?

別に楽しんで観てる人がいる分にはケチはつけませんが(ケチしかつけてないですが)審査員の審査が気に入らなくて、立川志らくの奥さんのtwitterに脅迫メッセかなんか送りつけた輩もいるそうで、そういう視聴者の行動、ドン引きします。

(ちなみに私は、立川志らくも好きです)

勝ち負けに拘泥するあまり、笑えない状況になっているのではないか?

という問題提起もひとつあります。

 

【先輩に絶対服従。→まるでサラリーマンのよう。芸人なの?】

そして、お笑い芸人に常日頃感じている疑問が、あの「上意下達」「先輩に絶対服従」

この「体育会系」体質です。

曰く、先輩に先に挨拶することを欠かしてはいけないとか、、、

まるで無能な上司にも面従腹背を迫られるサラリーマンのお作法のよう。

(私はこういうのが嫌で、前の会社を辞めました)

ヤクザ的とも言える。

本来、お笑い芸人とは、そういう先輩だとか上司だとかいわゆる権威に逆らう反逆精神をこそ期待したいところ。

そういう意味ではこの久保田が上沼に噛みついたのは、芸人としてのむしろあるべき姿であったと思う。

既存の権威、エスタブリッシュメントとして、この久保田を、もし権力や政治力を利用して、松本や上沼が叩くのなら、それはあまりに醜い。

ただ、そういう強い権力、として、若手芸人の壁であり続けるということがむしろ、「必要悪」として機能している側面もあるので、そこまで悪しざまに罵る事はできないのかもしれないが。

 

【総括】

以上、2,000字にもわたって長々と書いてきましたが、ひとつ思うのは、笑いというものが、「笑わせよう」と作為すればするほど、むしろ笑いから遠ざかってしまうという難しさでしょうか。

「狙った天然」は最悪ですが、「狙わない天然」とは果たしてそれを人為的に作りだせない以上、文化として昇華させることもまた、不可能なのでしょう。

そういう意味で真の笑いとは、M-1とかでは決してなく、刹那の芸術のことなのかもしれないなと書いていて感じました。

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